アジアのHIV/AIDS流行の現状と動向

慶應義塾大学医学部 山沢一樹

1.アジア各国におけるHIV感染の状況

 アジア地域には、バングラデシュ、ブータン、ブルネイダルエスサラーム、カンボジア、中国、インド、インドネシア、香港、日本、北朝鮮、韓国、ラオス、マレーシア、モルジブ、モンゴル、ミャンマー、ネパール、フィリピン、シンガポール、スリランカ、タイ、ベトナムが含まれる。本地域には世界の成人人口の60パーセント以上が居住しているので、この地域で生じたことは世界の流行に重要な影響を与える。
これらの国々の一般的な疫学と推定有病率は極めて多様で、HIV有病率が低い国(モンゴル、北朝鮮)から高い国(カンボジア、ミャンマー、およびタイ)までの範囲にわたる。
 流行の開始の時期と拡大の速さにもかなりのばらつきがあった。カンボジア、インド、ミャンマー、およびタイなどの国々では、HIVはある地域においては広範囲に極めて急速に蔓延した。一方、北朝鮮、韓国、フィリピン、シンガポールなどの国々では、現在まで蔓延は限局されており、流行の拡大もかなり遅いと考えられている。
 タイにおける流行は世界で最もよく報告されているが、約75万人の人々がHIVに感染していると推定される。タイ国内では、注射薬物濫用者の有病率は1988年に急速に上昇し、約35パーセントに達した。売春宿を基地とした性産業従事者のHIV有病率は1989年には3.5パーセントであったのが、1994年後期には33パーセントに上昇した。STDクリニックにおける男性の感染率は、同時期に0パーセントから8.6パーセントまで上昇した。妊娠中検査に通院する女性のHIV有病率は着実に上昇を続け、1989年には0パーセントだったのが、1995年には2.3パーセントに達した。この傾向は今後数年間続くものと予想される。しかしながら、予防努力が効果を上げているという証拠がある。軍徴収兵のHIV感染率が1993年には3.6パーセントであったのが1995年には2.5パーセントに減少している。
 インドにおいては、HIV血清有病率が南インドと西インドで高い。たとえばボンベイでは、1990年以前はSTDクリニックに通院する患者のHIV有病率は2から3パーセントであったが、1994年には36パーセントに上昇した。売春婦のHIV有病率は1987年から1993年の間に1パーセントから51パーセントに上昇し、妊娠中検査に通院している女性では、1994年に2.5パーセントのものが検査結果が陽性であった。インドでは、地理的な格差が大きい。インドの中央部、東部及び北部におけるHIV血清有病率はその他の地域よりも一般的に低い。カルカッタにおける売春婦の調査では、一貫して有病率は明らかに低く1.2パーセントであった。べロールでは妊娠中検査に通院している女性では0.1パーセントに留まっていたが、STDクリニックにおける有病率は1993年から1995年の間に、4パーセントから15パーセントに上昇した。マニプール州では注射薬物の使用が問題となっているが、有病率は1992年に60パーセントに達している。このように地理的にばらつきがあり、また国が広いため、実際の感染者数を推定するのは難しい。1994年の末に、WHOはHIV感染者は175万人であると推定したが、1996年の中期で感染者数が推定200万人から500万人であるとの証拠が挙げられている。
カンボジアにおいては、HIV/AIDSのデータは、最近の広範なHIVの流行は1980年代の後期または1990年代の初期に始まり、複数の性交渉相手のいる異性間性交渉の間で主に発生したことを示している。現在まで、カンボジアでは注射薬物について特に問題があるという証拠はない。プノンペンの献血者におけるHIV感染率は、1991年には0.1パーセント以下であったのが、1995年には約10パーセントに上昇した。急激な上昇は、売春婦、警官、軍人、STD患者、及び妊娠女性でも観察されている。
 ミャンマーにおける流行は本地域において最も深刻なものの一つである。1996年、ミャンマーには推定50万人のHIV感染者がいる。流行は1980年代後期に多数の注射薬物濫用者が感染したことから始まり、1992年以降の有病率は60から70パーセントである。売春婦のHIV有病率は、1992年の3月の4.3パーセントから1995年3月の18パーセントに着実に上昇した。かなりの地理的なばらつきがあり、妊娠女性の感染率は地域によって、1993年には0パーセントから12パーセントの範囲であった。他のSTD有病率が高いこと、コンドームの使用率が低いこと、売春が秘密裡に行われること、そして費用削減のための血液のスクリーニングが限定的であることなどが
HIV蔓延を助長する要因である。
 マレーシアでは、注射薬物濫用者におけるHIV感染率は1988年には0.1パーセントであったのが、1994年には20パーセントに急速に上昇した。売春婦の有病率は1989年の0.3パーセントから1994年には10パーセントにまで上昇した。1992年に全国的に実施された行動研究では、性的に活発な男性の3人に1人が、また結婚している男性の10人に1人が、前月にいきずりの性交渉を持ったと報告されている。売春におけるコンドームの使用率は低いことが報告されている。これは異性間性交渉での感染の可能性が非常に高いことを示している。過去3年間にマレーシアで注射薬物濫用者と売春婦の有病率が急速に上昇したことは、タイやミャンマーの流行の初期の頃と類似している。
ベトナムでは、現在流行が急速に拡大していることを示す証拠がある。治療中の注射薬物濫用者で有病率が高いことが示され(1992−1995年に32パーセント)、最近ではベトナム南部の若年男性と女性で有病率が増加していることが証明されている。売春婦の有病率は1992年から1994−95年の間に9パーセントから38パーセントに上昇した。
中国で報告されているHIV感染者とAIDS症例の大多数(約70パーセント)は、雲南省の注射薬物濫用者であった。HIV感染は中国南部で特に香港を取り巻く地域で、異性間性交渉者の間で上昇していると考えられる。中国予防医学アカデミーは、1993年末時点で中国におけるHIV感染者は1万人だったが、1995年末までに10万人に増加したと推定している。
 ラオスのHIV/AIDSの限定されたデータからは、HIV感染は異性間性交渉をする人々の間から始まった可能性が示唆されている。ラオスにおけるHIV流行開始を確認するためには、追加データが必要である。
 バングラデシュ、インドネシア、ネパール、スリランカでは、HIV感染の状況を比較的限定された検査、ほとんどの集団における低いHIV検出率、及びHIVとAIDSの低い報告数に基づいて判断しなければならない。このため、現状について得られる知識が少なく全体の有病率または罹患率の推定が極めて不確実なものになる。しかしながら、ほとんどの国々では、国民の他のSTDの有病率が高いので、広範にHIVが蔓延する可能性が高い。
 香港、日本、モンゴル、及び韓国においては、広範な蔓延は報告されていない。北朝鮮、及びブータンではAIDS症例またはHIV感染症例は報告されていないが、限定された調査しか実施されていない。
 フィリピンにおいては、流行はゆっくりと増加しているようで、売春労働者のHIV有病率は非常に低かった(1パーセント以下)。初期のAIDS症例は男性と性行為を持つ男性との間での蔓延を示した。フィリピンにおいては顧客が少ないことと売春行為が直接的でないことが、状況がゆっくりと進展していることを説明すると考えられる。
 シンガポールにおいては売春婦の感染率の上昇は極めてゆっくりである。アジアの他の地域で観察される売春婦のHIV感染の急速な増加は、シンガポールでは見られないが、これはたぶん予防努力の結果であろう。

2.影響を受ける集団

アジアにおける流行は、主に異性間性交渉を通じて拡大している。本地域では、売春の顧客、注射薬物濫用者、及び男性と性交渉を持つ男性が流行初期の急速な増加に強く寄与しているので、男性感染者数はおそらく女性感染者数を3対1の割合で上回っている。売春婦の顧客から、決まったパートナーや配偶者にHIVが感染することにより、流行が一般人口に拡大するにつれ、この男性/女性比は縮小すると予測される。
 アジア各国のHIV/AIDS流行は性の不平等と男性が売春婦を頻繁に訪れる習慣に強く影響されている。女性にとっての性的な表現は男性よりも一般に限定されているので、少数の売春婦が多数の顧客を持ち、その結果、HIV感染を促進する他のSTD感染率が高くなった。そして、売春婦及びその顧客における有病率の急速な上昇とともに流行が始まっている(STDクリニックのデータに認められるように)。この増大は、急激に拡大しうる。インドでは売春婦の年間罹患率は25パーセントくらいで、顧客では約10パーセントである。急速な拡大はタイとカンボジアにおける多数の研究においてもよく報告されている。 注射薬物濫用者が注射針を共有することは、高い感染率を考えると、特に黄金三角地帯(タイとベトナムから中国南部を通り、ミャンマー、及びインドのマニプール州まで)とマレーシア北部では、流行初期において重要な役割を果たしてきた。流行が成熟化すると、売春婦の顧客や注射薬物濫用者から妻や恋人への伝染が女性への最も重要な感染ルートになった。ただし、この感染は、売春婦と顧客の間の感染よりもゆっくり進行した。
 一般人口のリスク行動についての研究がほとんどないことから、ほとんどの国々において流行が最終的にどのくらいに達するかを判断することは難しい。香港、マレーシア、フィリピン、シンガポール、及びタイのみでリスク行動についての国家的な調査が行われている。これらの研究では性的リスク行動を行う男性の総数は香港、フィリピン、シンガポールでは、タイ、マレーシアよりも低いことが示されており、三ヶ国において流行の進展がゆっくりしていることを説明すると考えられる。
 妊娠中検査を受けている女性の感染率に地理的なばらつきが多いことを考えるとこの地域の小児HIV感染を判断することは難しい。タイにおいては、新規HIV感染者総数の約10パーセントに相当する6400名の小児が毎年感染すると推定される。

3.予防プログラムの影響

 地域における行動変化の程度は国々によって大いに異なっていた。タイでは行動変化が最もよく報告されており、また最も大きな変化があったが、これは多部門にわたる熱心な国家努力の結果である。1990年と1993年に実施された国民調査では、昨年、売春婦を訪れた男性の割合は22パーセントから10パーセントに減少した。売春においてコンドームを使用するのが現在ではふつうである。これらの行動変化の結果としてSTD罹患率が急速に減少した。初期の値の4分の1にまで減少したと報告されている。男性のHIV罹患率はもっと大きな割合で減少したと推定される。商業的な売春業界では、かなりの成功を収めたが、非商業的な不特定多数との性交渉を持つ人々の状況はなお懸念されている。恋人同士間のまたは長期的なパートナー同士間での最近のコンドームの使用率は低く、10パーセント台である。限定的ではあるが成功を収めた別の例は、夫がHIVに感染し妻が感染していないといったHIV感染の状況が異なる夫婦間の伝染が減少したことである。このように、女性が感染するに、女性が感染するにつれ、妊娠中の検査を行う医院で観察される感染率は上昇し続けている。
 シンガポールで流行がゆっくりと推移した原因は、主に、一般の認識と、STDクリニックと売春宿におけるコンドーム使用促進プログラムのためである。海外に旅行するシンガポール居住者による売春婦との性行為は、なおHIV感染の重要な経路ではあるが、シンガポールにおける売春婦のコンドームの使用はかなり高い率に達していると報告されている。
残念ながら、行動変化をもたらす努力はアジアの他の国々ではあまり有効ではなかった。インドでは、予防プログラムの広範な影響についての正式な調査は実施されていないが、集中グループ討論から、教育を受けた社会的経済的地位の高い階級でHIV感染の不安が高まってきていると考えられた。この事実によりコンドームの使用がこの集団で高くなることが考えられるが、まだ報告はされてはいない。残念ながら経済社会的地位が低い階級及び農村部では、HIV予防方法についての認識と知識はなお非常に欠落しており、行動変化をおそらくほとんど生じていない。多くの売春婦集団では、特に1日に多数の顧客を相手にする売春婦では、コンドーム使用は依然として低い。インドにおいては、コンドームは、ほとんどの婚前及び婚外の性交渉に必ずしも使用されるものではなく、なおも例外であり続ける。性感染症はインドでは依然として重要な問題であるが、HIV流行の前段階であるという認識はあまりされていない。
フィリピンでは、1990年と1994年にマニラ市及びその周辺で行動調査が実施されたが、不特定多数を相手にした性交渉が一定した割合でかなりあることが示され、行動的な変化はほとんどなかったことを意味している。コンドームの使用率はマニラ市及びその周辺ではいくらか上昇したが、その他の地域では低いままである。STD有病率はアジアの多くの国々より低いが、前述したように売春婦など特定の集団では高い。
 行動変化の誘発がミャンマーとマレーシアで有効であったかどうかは評価が難しい。なぜならリスクについて定期的に収集したデータが存在しないからである。しかしながら、マレーシアにおける広範なNGOの努力とミャンマーにおける草の根の努力によって、リスク行動が減少しコンドームの使用が増加している可能性はある。
 HIV流行初期段階の国々では(たとえば、バングラデシュ、ブータン、ブルネイダルエスサラーム、インドネシア、ネパール、モルジブ、及びスリランカ)、HIV予防のための国家努力はかなり限定されたもので、国民全体にわたる行動変化はまだ起きそうもない。売春に目標を定めたNGOと政府プログラムの努力によって、人口密度の高い都市部、たとえば、ジャカルタ、カトマンズ、及びコロンボなどではコンドーム使用がいくらか増加した。

4.医療プログラムへの影響

本地域の流行はごく近年であるので、AIDSを正しく診断できる医者が少なく、また必要な医療が供給できなかったり制限されていることも多い。生存率や医療の有効性に関するデータはほとんどないが、それから判断すると先進世界と比較してエイズと診断されたあとの生存期間が結果的に短い。タイにおけるある研究では、エイズと診断された後の生存期間の中間値はたった7ヶ月で多くの先進国よりもかなり短かった。これはおそらく疾患がかなり進行してからでしか、診断がなされなかったからである。フィリピンにおいては、感染した売春婦を追跡した小規模調査で、免疫系が高度に傷害されたと認識された後の生存期間は1年半であった。タイにおいては誕生時に感染している小児の約5分の1が6ヶ月後にエイズを発症することが観察された。しかしながら、この小規模な予防調査の結果を一般化することは難しい。医療機関の利用のしやすさとその実際の利用、及びそれが疾患の進行と生存に与える影響についての調査を緊急に地域全体で実施することが必要とされている。
 
5.AIDS:アジアにおける急激な増加

 南アジア及び東南アジアには多数の人間が居住していることを認識することは重要である。この地域には、世界の成人人口の60パーセントが居住している。特にインドで収集された証拠は、この国の多くの地域でHIVが急速、大規模、かつ収拾がつかずに拡大することを示唆している。インドにおいて流行の状態を緊急に全体的に把握する必要がある。アジアの他の地域と同様、インドにおいても農村人口部について信頼できるHIV/AIDSデータをもっと収集することが差し迫って必要であることは明らかである。
 中国も、その国土の大きさ及び社会と性行動の急速な変化から、本地域の中で流行の中心地となる可能性がある。
 各国内と各国間の蔓延速度の違いを認識しよく理解しなければならない。たとえばフィリピンとインドネシアにおけるHIVの広がりは、マレーシアやタイよりもなぜ明らかに遅いのだろうか。これはウイルスが後になって侵入したことと関連するのだろうか、信頼できるデータがないためであろうか。あるいは行動形態に違いがあるからだろうか。
 いくつかの政府(香港、マレーシア、シンガポール、タイ)は流行に対応するために多大な資源を割り当ててきている。しかしながら、アジア各国の政府のほとんどは、その国内で発生する流行を予防するために、外国の財政援助に多くを依存している。さらに、本地域のいくつかの政府がサーベイランスと行動に関する情報を発表しなかったり、発表を拒絶するという深刻な問題が依然として存在する。


参考文献

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